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CASE STUDY 02 / Dominga, Waysatta Fernandez, メキシコ

*El texto español sigue al japonés.

 

DOMINGA/ワイサタ・フェルナンデス

 

火口の傍らのハチの巣は、生態系の内にある

数年来私は、主にアーティストたちで構成されたコレクティブ(集団)に属しています。メキシコシティにあるそのコレクティブは「クラテル・インベルティード」(Cráter Invertido, 逆さになったクレーターの意味)と呼ばれ、私たちアーティストが共に立ち上げたものです。必要だと思っていることや不安に思っていること、動機など様々な事柄が――つまり、考えていることややっていることが似ていたために、私たちは結びつきました。諸機関からの芸術制作に対する支援が乏しい状況のなかで、自分たち自身でチャンスや手段、媒体、ダイナミクスを生み出していくためです。そしてそれはまた、かつてから現在に至るまで、社会政治的な文脈、すなわち権力と競争との結びつきがますます強まっていく危機的状況のただなかで形成されてきました。非安定化や搾取が際立つ環境の中で、国家は企業と手を組んで、生活のあらゆる側面に力づくで押し入り、支配の構造を負わせています。

 

こうした背景から、私たちは、対話、共通の学び、そして様々な知識を共有するのにふさわしい場づくりに力を注いできました。そこでは、持続可能性、集団的ケア、自治と自己決定、危機的な現状に抵抗するための集団を組織化するプロセスの探求に焦点が当てられ、共有されます。現在の危機は、社会経済的かつ政治的なものです。私たちがこのような場をつくる目的は、想像力や批判的思考、連帯意識、創造的実践、そして知識の多様性をもとに、未来をふさわしく改良していくことにあります。そういったプロセスの大部分が、私たちの共同アトリエで実践されています。共同アトリエでは、持続可能なプロセスや、コレクティブでありながら個人であること、作品制作や想像の過程のこと、共同アトリエの掃除や維持のこと、共同でプロデュースするメディアのことなどが話し合われます。大抵は、コレクティブとしてのマネジメントや組織化についての話題です。同様に、私たちはこの空間で、私たちの夢や、食べ物、苦悩、疑問、日々の感情などを共有しています。この場所はこれまでもこれからも、困難な現在と不確かな将来との間にあって、私たちが直感を信じ、問い合い、支え合う場であることは間違いありません。私たちは、押し付けられたスタイルや確立されたスタイルから逃れて、他の生き方を模索しようと闘い抗うなかで、自らに寄り添い、他者に寄り添おうと努力しているのです。

 

共同アトリエには1台の印刷機があって、自分の本やコミック、ポスターなどの印刷物の作り方を学びたい人や、学ぶ必要がある人が利用できます。図書室や台所、秘密の庭もあります。私たちの行動を推し進める原動力のひとつは、自らを育むこと。それは私たちの実践を広め持続していくために、なくてはならない友です。もうひとつは、陽の当たらない場所に居ることに慣れてしまっている者の姿を視覚化したり、その声を継続的に拡張し共鳴を呼ぼうと希求することです。そして自ら出版すること、自ら発信すること。それはアイデアと欲望の間を活発に行き来しつつ、学んだり、(古い価値観を捨て去ったり、当たり前だと思っていたことを新たに)学び直したり、共に発明したり、お互いの違いのなかにお互いを見出したりすることを可能にするための共通の学びの場です。ラジオは私たちが自分たちの言葉を発信していく自信を少しずつ取り戻すのに用いた手段の一つであるし、互いの話に深く耳を傾ける力を取り戻すメディアでもあります。また、私たちは一緒にたくさんドローイングを描きます。毎日のように描きます。それはイメージを用いて共有したり対話する、私たちのひとつの方法です。

 

受粉の実践

さまざまな個人、組織、集団、つながりのあるコミュニティとの協働によって生みだされた教えや知恵を手にし得たからこそ、私は勇気を持って「ドミンガ(DOMINGA)」というプロジェクトを前に進めることができます。ドミンガの舞台は、メキシコシティの南に位置するサンタ・ローサ・ソチアック(Santa Rosa Xochiac, ソチアックはナワトル語で「花の育つ場所」の意味)という村です。サンタ・ローサ・ソチアックは、主に農業を営む先住民の村で、メキシコシティに残る数少ない森林の一つとみなされている「デシエルト・デ・ロス・レオネス」国立公園に隣接しています。しかしながら、農業の慣習も森林も急速に消え去りつつあります。その主たる原因は、都市の際限なき拡大や生態系の搾取、帯水層の枯渇、土地の商品化などです。

 

ほとんどの時間を私はメキシコシティで過ごしているものの、サンタ・ローサ・ソチアックは、いろんな面で私にとって意味のある、そして私が深く根を張っている場所の一つと言えます。そこは私が生まれ育ち、今も家族が住んでいる土地です。ここには私の記憶の大半が息づいており、この土地で私のアイデンティティの一端は作られました。私は憶えています。今、セメントの家が建っているところは、かつては、ミルパ(Milpa)という古来から受け継いできた農法でトウモロコシや豆、ソラマメなどを作る畑でした。私は憶えています。道は、人や羊やロバたちが踏みならしてゆくことでできあがった、舗装の施されていない道路で、今日のように、自動車の往来が土肌を露わにしてゆくものではありませんでした。私は憶えています。私は容れ物を手に、泉の水を汲む順番を母か父と一緒に待っていました。私たちが待っている間、泉の支流で服を洗う女性たちがおしゃべりしている声が聴こえていました。岩に服をこすりつけてゴシゴシと洗っていた、あの石鹸の混じった水の音が、耳に残っています。私は憶えています。庭に出ようとしたときの、母の「あまり遠くにいっては駄目よ。もうすぐご飯ができるから」という言葉。その庭は、実のところ森でした。私は、こっくりと頷きました。今なら理解できるのですが、当時の私は遠いとか近いとかいうことについて、はっきりとした考えを持っていませんでした。その境界は、私が探検したいところまで着いたときに初めて立ち現れる類のものだったのです。私は憶えています。土地の境は、「タタンバ」と呼ばれる野苺のトゲだらけの茂みが成していました。そこは以前、ほとんどが共同所有地でしたが、現在はコンクリートの壁や金属のフェンスが、私有地の始まりと終わりを示しています。私は憶えています。かつては大地が息づき、生態系のあらゆる多様性が現れていた場所を。そこは今、アスファルトとセメントになっています。

 

私の記憶と同じように、たくさんの人々の記憶や、この土地に住んでいる、あるいは住んできた生きとし生けるものが、サンタ・ローサ・ソチアックの町の歴史をかたちづくっているのです。この地の生態系とそこに暮らす人々が生活を営む上で不可欠な、伝統や代々受け継がれてきた知識や地域社会の慣わしを、絶えず私たちに伝えてくれる記憶の数々。これらの記憶は同時に、時の移ろいの中でこの地に生じてきた、種々の変化を示してもくれています。

 

こうした記憶を認識し、共有し、敬うことで、私たちは生態系の網目のほころびをいかにして繕いうるのか、深く考えられるようになります。生態系のネットワークは、今をより価値あるものに、未来をより活き活きとしたものに築き上げるために、なくてはならないものです。そして、権力を把持する産業界やエリートたちが振りかざす環境破壊型の論理や資源搾取主義的な論理に基づいた一連のプロセスに対して、土地に根差ざす記憶の数々は、多方面から抗い、自らのテリトリーを主張していくための多種多彩な活動へと形を変える潜在的な力を持っています。

 

私がより明確な方法で具体的に行動すること、すなわちサンタ・ローサ・ソチアックの土地を守るために、より具体的に関わり始めたのが、「ドミンガ」の活動でした。責任を持って土地を守るプロセスに関わるというとき、そのやり方にはいろんなかたちがあります。私はそのひとつが、サンタ・ローサ・ソチアックに現存するさまざまな慣習や知識と繋がりうる仕事を始めることだと考えます。たとえば、農業を保護したり、森林や生物多様性を集団で守る活動などです。そうして、私はメリポナ養蜂の世界、つまりハリナシミツバチの飼育の道に入る決心をしました。こうした在来種のミツバチの飼育は、スペイン人が到来し植民地化する以前の、メキシコで発展していた文明においても存在していました。地域社会とミツバチの飼育との緊密な関わりを理解するということは、歴史や生態系と私たちの今とは異なる関わり方を捉え、経験することにつながる扉です。私たちの論理とは、相互依存的であり互恵的なものです。すなわち、ある土地に住む人々の営みが存続できる可能性は、周りの環境すべての活力と深く関係しあっているということです。このことからは、環境を搾取し荒廃させると、社会環境的な大惨事が広がるという危険性がわかってきます。この意味で、土地を守る闘いに参加するために、あらゆる手段・集団が持つ知識・創造的実践を活用することは、急を要するのです。

 

私たちは、メキシコはプエブラ州にあるクェツァラン村の養蜂コミュニティの存在を知り、メンバーの幾人かと話を交わしたことから、サンタ・ローサ・ソチアックに共同のメリポナ養蜂場を作ることを決めました。一方には、このハリナシミツバチの養蜂という生業と、それが地域社会の歴史とどう関わるのかについて、共有し広めるという意図があります。もう一方には、生態系の多様性や多彩な農業を保護するためには、受粉活動を担うミツバチの世話をすることが極めて大事なのだと、みんなで理解することも意図しています。今ミツバチたちは、多くの要因のなかでも、とりわけ殺虫剤や遺伝子組み換え種子や、概して農薬産業のせいで深刻な影響を被っています。最終的に、メリポナ養蜂は、土地や農村の在りようを持続可能なものにしようとする知識や実践に連なり、それらを豊かにしていくことを目指しています。

 

ミツバチの巣の作り方や、生態系の中でのミツバチや受粉を担う他の昆虫・動物の存在の重要性など、私たちが学べるあらゆるプロセスのうち、ミツバチが花から花へと花粉を集めて運ぶ働きについて、もう一度触れたいと思います。ミツバチのこの働きによって、受粉を通じた健全な種子の自然な生産が可能になります。種子が生まれ、発芽するために花粉がこのように移動していることを思うと、私の頭には、ある力強いイメージが浮かんできます。芸術や想像力に富んだ実践を通じて、土地を守る闘いにおいて他にも重要な過程を引き起こし、強化し、補完することができるのではないか。私はそう考えます。その場合、ラジオという手段やドローイングの実践、そして自主出版のプロセスによって、私は、諸々の土地における複数の声による歴史や記憶、知識を織りなすことができます。そしてそのような形をとることで、権力者の側の語りが落とす影に遮られ、抑えつけられている人々による別の語りを分かち合い、広く伝えることができるのです。

 

そういうわけで、「ドミンガ」とは、アートの実践とコミュニティの知識を結びつけることで、コミュニティの知識を忘れ去られないようにする存在だと私は考えています。若者の好奇心と年長者の経験を結びつける”橋が壊れている”のを再建するようなことです。それによって、さまざまな地域コミュニティの間の対話を促し、経験を交換し合えるようにするのです。闘うなかで仲間内の協力関係が生い育つようになり、自己組織化のプロセスが生じるようにするためです。

 

川、山、木、空気、動物、そして生態系を構成するあらゆるものが、単に資源に過ぎないという考え方に反論を唱え続け、そうした要素は私たちと完全に融合した存在であるということを思い起こし、尊厳と生命力を備えた存在にとって不可欠であると主張します。土地の自由は取引の対象であるとか、命は売買できるといった押し付けられた信念を葬り、代わりにソチアックの花が芽生えることを望んでいます。ある意味では、「ドミンガ」というプロジェクトはむしろ生き方のことなのです。

ワイサタ・フェルナンデス/Waysatta Fernandez

美術家。1983年、メキシコ生まれ。2011年に個人としてのアート制作を放棄し、集会や図書館、ラジオ局といった協働作業を行ってきた。同年にアーティストたちと共同で「クラテル・インベルティード」を設立し、芸術的実践が社会的および政治的プロセスと絡み合う集合的なプロジェクトを構築している。

 

(参考リンク)

Cráter Invertido

Radio Tropiezo

Radio Tropiezo (instagram)

 

文責:内山幸子(五領アートプロジェクト)

翻訳協力:三島玲子、鈴木恵子、八木優子

協力:Rinotta Benta、鋤柄史子、水野慎子

Dominga

Waysatta Fernandez

 

Una colmena cerca de un cráter dentro de un ecosistema.

Desde hace varios años soy parte de una colectividad compuesta, en su mayoría, por artistas quienes juntos fundamos un colectivo llamado Cráter Invertido en la Ciudad de México. Muchas fueron las necesidades, inquietudes y motivaciones que nos unieron – desde la afinidad de pensares y haceres – para generar oportunidades, nuestras propias herramientas, medios y dinámicas frente al escaso apoyo hacia la producción artística por parte de las instituciones. A su vez, esto estaba y continúa estando enmarcado en un contexto sociopolítico en crisis que promueve relaciones de poder y competencia. En medio de un ambiente de precarización y explotación, donde el estado junto con el sector empresarial, imponen estructuras de dominación, violentando todos los aspectos de la vida.

Frente a este panorama, nos hemos concentrado en fomentar un espacio propicio para dialogar, aprender en común y compartir distintos saberes con enfoque hacia la sustentabilidad, los cuidados colectivos, la autonomía, la autodeterminación, y la exploración de procesos de organización colectivos que nos permitan resistir el presente catastrófico; tanto socio-ambiental como político, para abonar un futuro digno desde la imaginación, el pensamiento crítico, la solidaridad, las prácticas creativas y la diversidad de conocimientos. La gran mayoría de estos procesos sucede en una casa que gestionamos de manera colectiva, allí nos organizamos pormedio de asambleas para discutir y estudiar sobre: procesos de sustentabilidad, individual asì como colectiva, trabajos artísticos y procesos imaginativos, limpieza y el mantenimiento de los espacios, también sobre los medios de producción comunes y, en general, sobre temas que requieren una gestión y organización colectivas. De igual manera, en este espacio se comparten nuestros sueños, la comida, las angustias, dudas y sentimientos desde lo cotidiano.
Ciertamente, este ha sido y sigue siendo un lugar para confiar en las intuiciones, hacernos preguntas y apoyarnos mutuamente en medio de las dificultades del presente y las incertidumbres del futuro. Procuramos acompañarnos y acompañar a otrxs en procesos de lucha y de resistencia desde esta búsqueda de otras maneras de vivir que escapan a los modos impuestos y establecidos.

En esta casa habita una imprenta disponible para quienes deseen o necesiten aprender a hacer sus propios libros, cómics, pósters y demás materiales impresos. También están la biblioteca, la cocina y un jardín secreto. Entre los impulsos que nos mueven están la autoformación, compañera indispensable para poder propagar y sostener nuestras prácticas; la visibilización, el eco que se busca permanente y amplificado para quienes la sombra ha sido costumbre. Autopublicarse, autotransmitirse. El lugar común de estudio para rebotar entre ideas y ganas y poder aprender, desaprender, inventar juntxs y encontrarnos en nuestras diferencias. La radio que libera la pluralidad de nuestras voces, sonidos y ritmos, y crea redes tan extensas como íntimas. Ha sido uno de los medios con los que poco a poco hemos recuperado la confianza de manifestar nuestra palabra y nos devuelve la capacidad de escuchar(nos) profundamente. También dibujamos mucho juntxs. Dibujamos casi todos los días como una forma de compartirnos y de dialogar con imágenes.

Prácticas de polinización

Gracias a la cosecha de las enseñanzas y herramientas construidas colectivamente, derivadas de trabajar y participar con distintas individualidades, organizaciones, colectividades y comunidades afines, me aventuro a gestar el proyecto que llamo Dominga.
Dominga tiene lugar en el pueblo de Santa Rosa Xochiac ( Xochiac es náhuatl y significa “Lugar donde crecen las flores”), ubicado al sur de la Ciudad de México. Santa Rosa Xochiac es un pueblo originario dedicado principalmente a la agricultura y colinda con el parque nacional “Desierto de los leones”, considerado como uno de los pocos bosques que aún se conservan en México. Sin embargo, tanto las prácticas de agricultura como el bosque están desapareciendo a ritmos acelerados lo cual se debe, entre muchas otras razones, al crecimiento voraz de las urbes, la explotación de los ecosistemas, la desecación de los mantos acuíferos y la mercantilización de los territorios.

Aunque la mayoría de mi tiempo lo paso en la ciudad, aún puedo decir que Santa Rosa Xochiac es uno de los lugares que me significa de muchas maneras y al que estoy profundamente arraigada . Es el lugar donde nací, crecí y en donde vive mi familia. Es el lugar donde habita una gran parte de mis memorias y es el territorio donde se ha construido un pedazo de mi identidad.

Recuerdo que ahí donde ahora hay casas de cemento antes había milpas ( cultivos de maíz, frijoles, habas). Recuerdo que las calles se trazaban por el caminar de la gente, de los borregos y de los burros y no por el transitar los automóviles como sucede hoy en día. Recuerdo esperar turno, junto con mi mamá o mi papá, para llenar nuestros recipientes con agua del manantial. Y mientras esperábamos, recuerdo escuchar la conversación de las mujeres que juntas lavaban ropa en el afluente del manantial, en mi memoria queda el sonido del agua jabonosa mientras tallaban la ropa contra las rocas. Recuerdo cuando quería salir al jardín, que en realidad era un bosque, y las palabras de mi mamá: No te vayas tan lejos que la comida va a estar pronto. Recuerdo asentir con la cabeza. Ahora comprendo que no tenía una definición fija de lejanía y cercanía, y que el límite llegaba hasta dónde yo estaba dispuesta a explorar. Recuerdo que las divisiones del terreno estaban definidas por los cultivos o por los espinosos arbustos de tatambas , como se les dice comúnmente a las frambuesas silvestres. Ahora, hay muros de concreto y bardas de metal que marcan donde inicia y donde termina la propiedad privada, ahí mismo, donde antes fueron tierras, casi todas, de tenencia comunal . Recuerdo que ahí donde la tierra respiraba y se manifestaba con toda la diversidad de un ecosistema, ahora hay asfalto y cemento.

Al igual que mis memorias, las de muchas personas y tantos seres que habitan y han habitado estos territorios conforman la historia del pueblo de Santa Rosa Xochiac. Memorias que nos siguen hablando de las costumbres, saberes ancestrales y prácticas comunitarias imprescindibles para la vida de los ecosistemas y de quienes los habitamos. Simultáneamente, estas memorias nos muestran las múltiples transformaciones que han venido sucediendo en los territorios con el paso del tiempo.

Conocer, compartir, y honrar estas memorias nos permite reflexionar sobre cómo resanar nuestras relaciones ecosistémicas, esenciales para la construcción de otros presentes dignos y futuros más vitales. Estas memorias tienen la potencia de transformarse en múltiples acciones para procurar los territorios, desde muchos frentes, contra aquellos procesos con lógicas ecocidas y extractivistas perpetradas por las industrias y las élites que sustentan el poder.

Dominga es desde donde comienzo a implicarme, de forma más específica y con acciones puntuales, con la defensa del territorio de Santa Rosa Xochiac. Considero que una de las tantas formas de comprometerse con los procesos de resistencia de los territorios es a partir de un oficio que pueda vincularse con las prácticas y saberes que de por sí ya existen en Santa Rosa Xochiac; como son las prácticas de la agricultura y de protección colectiva de los bosques y la biodiversidad. Así es como decido adentrarme en el mundo de l a meliponicultura o el cultivo de abejas sin aguijón. El cuidado y cultivo de estas abejas nativas ha estado presente en las civilizaciones prehispánicas, comprender la estrecha relación que tienen las comunidades con el cultivo y cuidado de las abejas es una puerta de acceso para captar y experimentar otras formas de relacionarnos con las historias y con los ecosistemas. Nuestra lógica es de interdependencia y reciprocidad en donde la posibilidad de existencia de quienes habitan un territorio tiene que estar relacionada y comprometida con la vitalidad de todo un entorno. Y desde donde se entiende el riesgo que la explotación y el deterioro de un territorio puede implicar una catástrofe socio-ambiental generalizada. En este sentido, resulta urgente hacer uso de todas las herramientas, saberes colectivos y prácticas creativas para implicarnos en los procesos de lucha y resistencia por la defensa de los territorios.

A partir de conocer una comunidad apicultora en Cuetzalan (ubicada en el estado de Puebla en México) y entablar diálogo con algunos de sus miembros, decidimos conjuntamente construir un meliponario en Santa Rosa Xochiac. Por un lado, con la intención de compartir y difundir el oficio de la meliponicultura así como su relación con la historia de las comunidades. Por otro lado, también está el propósito de compartir la importancia vital que guarda el cuidado de los polinizadores para proteger la diversidad de los ecosistemas y de la agricultura, especialmente ahora que se ve gravemente afectada, entre muchas cosas, por el uso de pesticidas, transgénicos y la industria agroquímica en general. Y finalmente, la meliponicultura busca sumarse y enriquecer los saberes y prácticas que apuntan a la sustentabilidad de los territorios y las ruralidades.

Retomo, entre todos los procesos que podemos aprender de la organización de las colmenas y la importancia de la presencia de las abejas y otros polinizadores en los ecosistemas, aquella de la recolección y la transferencia de polen de una flor a otra – lo que hace posible, entre otras cosas, la producción natural de semillas sanas a través de la polinización. Esta transferencia de polen para que una semilla nazca y germine me resulta una imagen potente que nos invita a reflexionar acerca de las posibilidades de acción de las prácticas artísticas o imaginativas para detonar, fortalecer y complementar otros procesos vitales de lucha y resistencia por la defensa de los territorios. En este caso, tanto las herramientas radiales como las prácticas de dibujo y los procesos de autopublicación me permiten tejer las historias, memorias y saberes de las voces que se manifiestan en los territorios. Y así poder compartir y esparcir otras narrativas que han sido opacadas y reprimidas por los relatos de poder.

Es así que concibo a Dominga como un ente que procura conectar prácticas artísticas con saberes comunitarios para rescatarlos de ser olvidados. Que busca levantar los puentes rotos que separan la curiosidad de lxs jóvenes de las vivencias de lxs ancianxs. Que pretende motivar diálogos y compartición de experiencias entre comunidades de distintas territorialidades para que florezcan complicidades en las luchas y se siembren procesos de auto-organización. Que persiste en contrarrestar la idea de que los ríos, las montañas, los árboles, el aire, los animales y todo lo que conforma a los ecosistemas son meros recursos, que insiste en recordar que son presencias con las que estamos totalmente compenetradxs, en lo indispensables que son para una existencia digna y vital. Que desea sepultar la creencia impuesta de que la libertad de los territorios es negociable o que la vida está en venta, y que en su lugar rebroten las flores de xochiac . En este sentido Dominga más que ser un proyecto es una postura de vida.